赤レンガが特徴的な「東京駅」。この東京駅を設計したのは、「日本近代建築の父」といわれた【辰野金吾】。辰野は、明治時代に日本人で初めて西洋建築を学び、日本の環境に合う近代的な建物をつくった建築家の1人です。
江戸時代までの日本の建物のほどんどは、木と紙と土でつくられていました。幕末~明治時代になると、近代的な建物がつくられるようになります。
それまで鎖国をしていた日本は、欧米諸国と国交を結ぶにあたり、日本に不利な条約が決まってしまいました。その条約を改正するためには、諸外国と対等な力関係が必要でした。しかし、当時の日本と欧米諸国の国力にはとても差がありました。
国力差をうめるために、日本は【富国強兵】【殖産興業】という「国の力を強くして、欧米と肩を並べよう!」という目標をたてました。
明治時代の近代建築は、日本の近代化を支え、日本の変化を世界に示すために重要なものでした。
このページでは、日本建築の近代化の背景や日本人建築家の誕生、その代表的な建物についてご紹介したいと思います。
不平等条約の締結、条約改正へ【近代化のはじまり】
鎖国状態を続けた江戸幕府
徳川家康が征夷大将軍となった1603年から約260年続いた江戸幕府。
三代目家光の時代、1630年代から外国との貿易は決められた場所で、限られた国に制限し、「鎖国」状態を続けていました。
【黒船の来航】不平等条約で困ったことに!
1853年にペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が日本に派遣され、日本に「開国」を迫りました。ここから日本は、アメリカ・イギリス・ロシア・オランダと条約を結びます。
アメリカとの間で結んだ【日米修好通商条約】は、貿易のために開かれた港では、アメリカ人の犯罪を日本人が裁くことができない「領事裁判権」。また、「自由貿易」のはずが、輸入品への課税が低く設定されてしまうといった、日本にとって不利な条約でした。
他の国ともアメリカと同様の条約が結ばれます。

【めざせ!国力アップ】不平等条約改正への道のり
諸外国と結んだ不平等条約は、江戸幕府がなくなってからも引き継がれ、新政府は、この条約を改正することに注力します。
新政府誕生後、日本は条約改正の道を探りながら、欧米諸国を視察するなかで、日本の近代化へのヒントを得ていきます。
日本人大工による西洋建築の模倣【擬洋風建築】
鎖国中の貿易で知る西洋
「鎖国」状態のなかで、日本が西洋の文化を知るきっかけは、長崎・出島などでの貿易でした。出島には外国人居留地があり、居留地の外国人商人は、西洋や植民地の建築・生活様式を持ち込みました。開国したことで外国人居留地は、西洋技術を導入し、さらに整備されていきました。
写真:photoAC【日本人大工】の外国人居留地や錦絵で見る西洋建築の模倣
外国人居留地では、西洋人技術者とともに西洋建築に携わる日本人大工がいました。居留地で西洋建築にふれた日本人大工は、明治時代になって日本各地で建物の西洋化が求められると、居留地の西洋建築を模倣して建物を建てました。
一方で、それまで西洋家築に携わったことがない日本人大工は、錦絵(多色刷りの木版画)に描かれたり、すでに建てられた「西洋建築」もしくは「洋風建築」を見よう見まねで建物を建てました。
いずれの日本人大工も日本伝統建築に「西洋」や「中華風」の要素を入れて、設計・建築し、独自の「西洋建築」を表現していきました。
西洋建築を日本へ【お雇い外国人】の貢献
お雇い外国人とは
幕末から明治時代にかけて、日本の近代化のために、欧米の技術や知識などを導入するために日本政府に雇われた外国人です。
建築の分野では、工部省(現在の国土交通省や経済産業省)が、現在の大学建築学科にあたる【工部大学校造家学科】をつくりました。
そこで日本人に西洋建築を教えたのが、お雇い外国人でした。
建築分野のお雇い外国人のなかで、日本の近代建築に貢献した1人が【ジョサイア・コンドル】です。
日本近代建築の恩師【ジョサイア・コンドル】
コンドルは、イギリス・ロンドン大学で建築学を学び、イギリスの設計事務所で修業した後、20代半ばで日本政府に呼ばれ、来日しました。
コンドルは、日本で多くの洋館設計に携わりながら、工部大学校で日本人に建築学を教えました。

ジョサイア・コンドルの建築
旧岩崎邸
写真:photoACニコライ堂
写真:photoAC日本人建築家の誕生
明治10年代、ジョサイア・コンドルから建築学を学び、西洋建築の知識を持った日本人建築家が誕生します。
工部大学校でコンドルから建築を学んだ1期生の【辰野金吾】、【片山東熊】、【曾禰達蔵】と、その後輩の【妻木頼黄】をご紹介します。
日本近代建築の父【辰野金吾(たつの きんご)】
工部大学校を主席で卒業した辰野は、イギリスへ留学し、師匠・コンドルが務めていたイギリスの設計事務所で修業します。
帰国後は、工部大学校教授、東京帝国大学工科大学長、そして建築学会会長などを歴任し、日本の建築分野の教育に力を入れました。
一方で、日本銀行本店本館をはじめとする多くの銀行や東京駅などの設計に携わり、「日本近代建築の父」と言われました。
日本銀行本店本館
写真:photoAC東京駅
写真:photoAC旧日本銀行京都支店(京都文化博物館)
宮廷建築家【片山東熊(かたやま とうくま)】
工部大学校を卒業した片山は、有栖川邸御用掛をはじめ、宮廷建築家として離宮や皇族邸を中心に、公共施設の設計をしました。
当時、イギリスやドイツ系デザインの設計者が多いなか、片山はフランス系のデザインを好みました。
一人乗りの人力車では窮屈なほど体格が良かった片山ですが、代表建築の「旧東宮御所」を見た明治天皇から「派手すぎる」と言われて、ショックを受け、体調を崩してしまうといった繊細な一面があったそうです。
旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
写真:photoAC東京国立博物館表慶館
写真:photoAC「建築家」という職業を浸透させた【曾禰達蔵(そね たつぞう)】
卒業して工部大学校の教授を務めた後、曾禰は三菱社に入社し、師匠のコンドルとともに、現在の丸の内一帯で「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と言われた、丸ノ内ビジネス街の建設に携わりました。
明治末期には個人設計事務所を開設、中條精一郎との共同設計事務所も開設し、日本に「建築家」という職業を浸透させました。
工部大学校で最年長だった曾禰は、師匠のコンドルと同い歳で気が合ったのか、卒業後に従事していた官庁での仕事を辞めるとき、身の振り方をコンドルに相談したこともありました。
日本に「建築家」を浸透させた曾禰ですが、戊辰戦争の戦場をくぐり抜けた経験から、家族に「本当は歴史家になりたかった」と話していたそうです。
三菱一号館(コンドル設計、曾禰現場主任)
写真:photoAC旧鹿児島県庁舎本館
写真:photoAC辰野金吾のライバル【妻木頼黄(つまき よりなか)】
工部大学校造家学科6期生の妻木は、同じくコンドルに教わった辰野たちの後輩です。
しかし、卒業まであと1年を残し、妻木は退学してアメリカのコーネル大学に編入。卒業後は、アメリカの設計事務所で修業しました。
帰国後は、主に官庁設計に従事し、東京府庁や日本赤十字社などを手掛けます。
妻木は、コーネル大学への編入以外にも、工部大学校入学前の16歳の時に単身アメリカに渡ったり、議院設計のためにドイツに留学したりと、欧米の技術・知識を積極的に学ぼうとする、信念の強い人でした。
議事堂建設にあたり起こった問題では、議事堂の設計デザインを建築設計競技で公募するか否かで、建築学会会長だった辰野と意見を対立させました。
旧横浜正金銀行
写真:photoAC日本橋(意匠設計)
写真:photoAC旧丸三麦酒醸造工場(半田赤レンガ建物)
写真:photoACまとめ
日本の近代建築は、不平等条約の改正、日本の近代化のために重要な存在でした。
日本人建築家の誕生まで、西洋建築を見た日本人大工が見よう見まねで洋風建築をつくり、また、日本政府に雇われた外国人が西洋建築を設計しながら、日本人に西洋建築の知識・技術を教えました。
明治時代につくられた建物は、現在でも保存され、見られる建物もあります。変わりゆく時代のなかで建てられた建物を、実際に目にしていただけたらと思います。
そのときに、このページの情報がお役に立てれば嬉しいです。






